〔特集〕学習院コレクションより 華麗なる皇室文化の象徴 幸せを贈るボンボニエール 明治時代に華族子女の教育機関として開校した学習院 ── 。昭和24(1949)年に開学した学習院大学では、同50年、研究施設として学習院大学史料館が設立されました。収蔵されているコレクションは実に25万点以上。皇族・華族ゆかりの品々は、日本の歴史と伝統文化を知るうえで欠かせない貴重なものばかりです。とりわけ明治時代より皇室の慶事の折々に下賜されてきたボンボニエールは、その可愛らしさ、職人たちの卓越した技巧により、多くの人々から愛されています。西欧発祥でありながら、今日では「日本皇室特有の工芸品」と認識されているボンボニエールの世界をお楽しみください。
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明治時代に登場し、大正時代に花開く
ボンボニエールとは、皇室の慶事に際して下賜される菓子器。フランス、イタリアなど西欧諸国では、結婚や子どもの誕生の際に容器入りの菓子(Bonbonnière)を配る慣習があります。この慣習が明治時代の中頃、日本の皇室にもたらされました。
皇室初のボンボニエールは、明治22(1889)年の大日本帝国憲法発布式後の宮中晩餐会、食後のプティ・フールがいろいろな容器に入って配られたのです。
明治27年の明治天皇と皇后の御大婚25年祝典(銀婚式)には銀製の鶴亀形のボンボニエールが初めて皇室オリジナルデザインのものとして登場します。
鶴亀形 明治天皇御大婚25年祝典
明治27(1894)年3月9日大婚25年とは銀婚式のこと。銀尽くしで行われた式典で、初めて皇室オリジナルデザインの銀製ボンボニエールが下賜された。岩上に亀と立鶴を配したボンボニエールを手がけたのは、帝室技芸員を務めた鈴木長吉(すずき ちょうきち 1848~1919年)。岩の中には「五色豆の如き」菓子が入れられた。
この後、華やかな意匠が施された手のひらサイズの銀製容器に主に金平糖を入れ、御結婚や御即位などの慶事の際、また海外賓客への贈り物とされたのです。ボンボニエールは皇室から華族家、一般家庭へと伝播し大流行します。
小さなボンボニエールを制作し、下賜することによって、明治維新で職を失った刀剣職人などの伝統工芸技術を保護・継承し、海外へ宣伝する役割も果たしました。
皇室ではこの慣習を現在も継続しており、海外ではボンボニエールは日本皇室特有の工芸品として認識されています。
大正時代の自由な空気が超絶技巧の作品を生む
ボンボニエール流行の契機は大正大礼。向かい合う鳳凰を彫り出したり、紐がかかる葉の部分をわざわざ折ったり、銀糸で編み上げたような神器をかたどったりと超絶技巧の作品が大礼列席者数千人に下賜された。ここから、大正時代の自由な空気と相まって、さまざまな形で、技巧に富んだボンボニエールが次々に生み出された。
八稜鏡形鳳凰文 大正大礼 東京宮中饗宴
大正4(1915)年12月7日・8日大正大礼の諸儀式は京都で行われ、その後、東京で宮中饗宴が催された。上写真は、その際に下賜されたボンボニエール。大礼では数千個のボンボニエールを下賜するため、分散して発注制作された。底面には「三越」「玉屋」「村松」など業者の刻印が確認できる。
柏葉筥形 大正大礼 大饗夜宴の儀
大正4(1915)年11月17日大饗の夜宴の際には大嘗祭の神器である柏葉筥をかたどったボンボニエールが配られた。柏の葉の重なりを銀で表現し、紐のかかる部分の葉には、わざわざ折り込みを作るという細かい細工が施されている。
入目籠形 大正大礼 大饗第二日の儀
大正4(1915)年11月17日大正天皇の即位礼中、2日間にわたり開催された大饗の2日目に下賜された入目籠形ボンボニエールは東京美術学校の平田重幸が図案を制作。入目籠とは、大嘗祭において神に捧げる神衣(かんみそ)を入れる神器(じんぎ)のこと。繊細な竹編みを銀で表現している。
菊花形鳳凰文 大正天皇御大婚25年祝典
大正14(1925)年5月10日大正天皇・皇后は大正14年5月に御結婚25周年、いわゆる銀婚式を迎えられた。その際には双鶴置物と菊花形鳳凰文ボンボニエールの2種が下賜された。デザインはともに後の東京美術学校図案科教授、森田 武(1894~1979年)による。
※作品名の下に記載されているのは、ボンボニエールが下賜された年月日です。(次回に続く。
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