〔新春特別インタビュー〕『海の沈黙』公開によせて 反骨の創作者 倉本 聰という人 『前略おふくろ様』や『北の国から』、『やすらぎの郷』をはじめ、多くの人々の琴線に触れる名作を送り出している、日本を代表する脚本家・倉本 聰さん。60年前から練り続けてきた構想が原作の映画『海の沈黙』がこの度公開されました。その機に行われた特別インタビュー。創作の原動力、両親からの影響、森への思いなど、今こそ聴きたい倉本さん12の〈語録〉をお届けします。
「憑依しないと、ものは書けない。『北の国から』にも、自分で書いたとは思えないセリフがある」
倉本 聰さん(くらもと・そう)1935年1月1日、東京都生まれ。脚本家・劇作家・演出家。父は日新書院取締役で俳人の山谷太郎、母は裏千家茶道師範の綾子。妻は俳優の平木久子。東京大学文学部美学科卒業後、1959年ニッポン放送入社。1963年退社後脚本家として独立し、1977年富良野移住。富良野自然塾を主宰。
主な作品/『前略おふくろ様』、『北の国から』、『昨日、悲別で』、『ライスカレー』、『優しい時間』、『風のガーデン』、『やすらぎの郷』、『やすらぎの刻~道』(テレビドラマ)、『駅 STATION』(映画)ほか多数。
Q1. 2024年11月22日に全国公開された映画『海の沈黙』への思いをお聞かせください。
A. 死ぬまでに、どうしても書いておきたいものがいくつかあるんですよ。この『海の沈黙』はその一つ。だから集大成なんていわれると困るんです。ほかにもあるからね(笑)。鎌倉時代後期の永仁時代作として、1959年に国の重要文化財に指定された壺が、実は加藤唐九郎という現代陶芸家の作品だとわかって、1961年に重要文化財指定が取り消されて価値が暴落した「永仁の壺事件」という出来事がありました。僕は大学で美学を専攻した人間です。そこで学んだアリストテレス美学の根本、「美は利害関係があってはならない」という一節は座右の銘の一つでもあるわけで、その顚末がとても不思議だったのです。権威というものの疑わしさ、それに翻弄される世間への皮肉を書いてみたいという気持ちがそれこそ60年間、僕の中にくすぶっていて、このドラマに結実したんですね。
Q2. 反骨精神の塊、と評されていることをどう思われますか?
A. 反骨というより、へそ曲がりなんです。例えば、富士山の登山。標高は3776メートルですが、2400メートルの5合目まで車で行って、そこから山頂まで歩いたら登るのは3分の1の約1400メートルですよね。エベレストも8848メートルあるけれど、ネパールのカトマンズまで飛行機で行って、そこから登ることが多い。それで登頂成功といっていいのか? 何かおかしくないか? そこに疑問を持っちゃう。原点に戻ってものを考えると、今の複雑な世の中のごまかしや矛盾が全部透けて見えてくるんですよ。でも、なんとエベレストの完全登頂を目指して海抜0メートルから1000キロ歩き、8848メートルの山頂まで自力で登った登山家がいたんです。ティム・マッカートニー・スネイプというオーストラリア人が、1990年に成功していました。これはもう本物、本質です。
Q3. 倉本さんにとって、創作とは?
A. 「創るということは遊ぶということ。創るということは狂うということ。創るということは生きるということ」。書いているときにこの3つが自分の中にうまく入り込むと、さっと空気が綺麗になって憑依するんですよ。『北の国から』という作品でも、自分が書いたとはとても思えないセリフがある。いいセリフのところはたいてい、僕が書いていませんから。やっぱり、憑依しないとものは書けません。
脚本を書き始めて60年以上になりますが、憑依できるようになったのは、北海道に来てからですね。でも、最近は昔よりトイレが近くなったり体調的な面で妨げられて、創作時の集中力が落ちてしまい、スムーズに憑依しにくくなってきた。だから今、憑依する方法を一所懸命模索しているんです。